~Shades of Stars~

第2話『Sparkly Spot』

慈は、廊下で立ちすくむ人影を、見つけた。
それは影というにはあまりにも輝いていて、普通の人では話しかけることもためらわれてしまうだろう。孤高の天才はきょうも世界から弾かれたように、壁を見つめていた。
(ま、私も天才だから、気にしないけどね)
慈はフランクに、片手を上げた。
「つーづりーちゃーん、どしたー?」
一瞬。表情には出なかったが、彼女は怯えたような雰囲気を出した。相手が自分とわかると、「あ」と小さく口を開いて。
綴理
「ふじしま……さん」
慈は軽やかに、にょきにょきと距離を詰める。
すぐ近く。息がかかるほどに近づいた慈は、下から綴理の顔を見上げる。
綴理
「……?」
パーソナルスペースが存在していないのか、まるで気にせず大きな瞳で見返してくる綴理に、慈は盛大にため息をつく。
「相変わらず、きょうも麗しいね、綴理ちゃん」
綴理
「……ありがとう?」
「これでスキンケアもなんもしてないんだから、ほんとどうかしてるっての」
よくわからないと首をひねりながらも、褒められたことはわかったようだ。綴理の警戒心がわずかに和らいだ。
表情がほとんど動かない分、なんとなく気配で察するより他ない。天才の自分だから汲み取れるけど、他の人だったらまるでわからないんじゃね? と思う。乙宗ちゃんとか。
蓮ノ空女学院に入学してから、1週間が経った。あれからも慈は、スクールアイドルクラブに体験入部と称して、居座って……もとい、【通】{かよ}っている。
梢とは依然変わらず犬猿の仲だが、沙知や綴理とは、ずいぶんと打ち解けた、気がする。
(いや、綴理ちゃんはまだぜんぜんわかんないか)
夕霧綴理は、独特な感性の少女だ。相変わらず話す言葉の意味は半分もわからないが、こう見えて意外と気を遣う性格だということはわかってきた。粘れば、それなりにコミュニケーションも取れるようだ。難易度は高いが、攻略し甲斐がある、とも言える。
ひとまず、勝手に下の名前で呼ぶことにした。これも距離を縮める第一歩だ。別に特別、彼女を気に入ったというわけではないが、妙に目を離せないのだ。
蓮ノ空のお嬢様方の中で自分は変わり者で、綴理も同じように変わり者だ。なんとなく、異端同士の連帯感、というやつを感じているのかもしれない。
「で、部活、行かないの?」
促すと、綴理はほんの少しだけ眉を動かした。
綴理
「……いくよ。うん、いく」
その気まずそうな態度に、慈はピンときた。
「ははーん。部室の場所がわからなくなったんだ?」
綴理
「あ……」
綴理は目を伏せた。まるでお説教に耐えるしかない子どものように、唇を閉じてうなずく。
綴理
「……うん」
「よっしゃ。それじゃこのめぐちゃんが、連れてってあげようじゃないか」
綴理
「ごめんなさい」
「いいっていいって」
むんずと綴理の手首を掴む。その細さにびっくりする。
「綴理ちゃんって、ちゃんとごはん食べてる?」
綴理
「えっと……。食べてるよ。食べるときには」
「ふーん」
慈は後に、綴理がしょっちゅう食事をとることも忘れて、定期的に行き倒れていることを知るのだが……それはともかくとして。
綴理
「ふじしまさんは……やさしいね」
「いやそんなことないから」
綴理
「そうなの? こわい?」
真っ向から聞き返されて、少しだけ困ってしまう。
「いや……どうかな。相手次第だよ。乙宗ちゃんとか、私のこと悪魔を見るような目で見てることあるじゃん」
綴理
「ボクが、思っただけ、だから。ごめん」
まただ。
(綴理ちゃんは、すぐ謝る)
内心思うだけにとどめたのは、そう指摘したところでまた謝られるだけだと思ったから。そしてそれは、きっと正しい。
とりあえず、まあ、誤解だけは解いておこう。
「私って、小学生からずっとタレントやってるんだけど」
いや、ずっとではない。今は強制的に休止中だ。腹立たしいことに。
こみあげてくる怒りを胃の中に押し戻す。綴理の手を引いて部室棟を歩きながら、淡々と語る。
「業界ってヘンなところでね。そりゃもう、いろんな人がいるんだよ。この人、サラリーマンになったら大変だろうなー、みたいな。でも、そういう人でも一芸に秀でたら活躍できるのが、私のいた業界だから」
振り向いて様子を窺うと、綴理は適切なリアクションを返せずに困っているようだ。
(ま、伝わらないか)
内心、苦笑いして、話を締めくくる。
「だからね、たぶん普通の子よりは慣れてるんだよ。綴理ちゃんみたいに、芸術分野はものすごいけど、それ以外はぽやぽやしてる人に」
綴理
「ボクが……他にも、たくさん、いた?」
「綴理ちゃん本人ではないけど! まあでも、そう。おかげで、私もちょっとやそっとじゃ物怖じしない人間になったんだよ……っと」
慈が綴理の手を引っ張って廊下を歩いていると、同級生や先輩たちから物珍しく見られる。学年トップクラスの美少女ふたりの奇行は、さすがに注目を集めるようだ。
それも含めて、気にするほどのことではないと、慈は思う。悪いことをしているわけじゃないのだから、堂々とすればいいのだ。
綴理
「……」
それにしても……。綴理はいつも物静かだが、きょうは一段と暗い。まとう雰囲気が、どんよりしている。
「てか、なんかあったの?」
綴理
「……っ」
軽い気持ちで尋ねると、綴理は目を見開いて驚いた。
そのあからさまな態度に、こちらのほうがびっくりしてしまう。
「な、なに?」
綴理は立ち止まった。うつむきながら、胸に手を当てる。
綴理
「ざぁざぁ」
「……なに?」
まるで、それがとてつもなく悲しいことのように。
唇を震わせて、綴理はつぶやいた。
綴理
「心の雨が、止まないんだ」
沙知
「というわけで!」
歩みの遅い綴理を引っ張って部室まで連れてくると、沙知と梢はすでに集まっていた。遅いわ、という目で見てくる梢を無視して、定位置の席につく。
すると、ホワイトボードの前に立っていた沙知が、分厚い雲の隙間から覗く太陽のような明るい声で、告げてくる。
沙知
「ライブをやろうじゃないか!」
ユニゾン
「「……ライブ!」」
梢と慈の声が重なった。慈は嬉しそうに。梢は重々しく。
はいはーいと慈が手を挙げる。
「ライブって、もしかしてあのライブ? ステージで歌ったり踊ったりするやつ?」
沙知
「そう、そのライブだ。どうだい? ワクワクしてくるだろう?」
「そっかー、ライブかー。めぐちゃんのかわいさが、世界に見つかっちゃうじゃんー」
タレント活動中でも、さすがにライブまでやったことはなかった。スクールアイドルクラブに参加したメリットを、早くも享受できそうだ。
「……沙知先輩。まだ正式な部員じゃない人が混じっているんですけれど」
沙知
「ははは、細かいことはいいじゃないか。 時期は今月の4月末。 もう音楽堂ステージの申請は済んでいる。 乙宗ちゃんも、胸躍るだろう?」
梢は口をぱくぱくさせて、目を剥いた。
「今月末って……! あと3週間もないじゃないですか!」
沙知
「嫌なのかぃ?」
「というより準備不足でステージにあがるなんて、そんなの、来てくれた方々に失礼です!」
「へえ」
慈が思わず意外そうな声をあげると、梢にじっと見つめられる。
「……なにかしら」
「いや、乙宗ちゃんって来てくれた人のためにとか、そういう感情あったんだ?」
完全に偏見だが、梢のような優等生は、自分がどう見られるかを先に気にするタイプなんだと思っていた。
「あのね……。私は、音楽家の娘よ。聞いてくれる人がいて、初めて職業に存在価値があるの。人前で披露することの怖さと難しさは、誰よりも知っているつもりだわ」
「ふぅん」
口には出さなかったが、その部分は同感だ。タレントだってファンあってのもの。わかってんじゃん、と慈は思う。
「……なに?」
代わりに、いやらしい笑みを浮かべる。
「乙宗ちゃん、ステージにあがるのが怖いだけじゃないの?」
「あなた……!」
沙知
「まあまあまあ」
慈と梢が雰囲気を悪くすると、沙知が間に入ってくる。そろそろ見慣れてきた、102期スクールアイドルクラブのいつもの光景だ。
沙知
「乙宗ちゃんの、しっかりと稽古をつけてからライブを開きたいっていう、その気持ちはわかるよ。すっごくよくわかる。だけどさ、きみは音楽家じゃなくて、スクールアイドルなんだぜ?」
「それが?」
沙知
「スクールアイドルっていうのは、その成長過程を見てもらうのだって、活動のひとつじゃないか。きみの大好きなスクールアイドルだって、そうだっただろう?」
「それは……まあ……」
さすが、スクールアイドルに関しては沙知のほうが何枚も【上手】{うわて}のようだ。勢いをくじかれる梢。目を光らせ、部長が畳みかける。
沙知
「ラブライブ!優勝を目指すにしても、ひとつでも多くステージを経験しておくのは、悪いことじゃないと思うけどねぃ」
「う……」
その一撃は特に効いたようだ。「そうですね……」と認め、梢は押し黙る。
慈が口元に手を当てて、ぼそっと。
「乙宗ちゃんって『スクールアイドル』と『ラブライブ!』って言葉に、めちゃくちゃ弱いよね」
「……うるさいわね」
観念したように、梢が口元を結ぶ。
「わかりました。今月末までにせいぜい恥ずかしくない姿をお見せできるよう、精進いたします」
沙知が「ふー」と息をついて、額の汗を拭うようなジェスチャーをする。
「問題児相手に、毎日大変ですねえ、沙知先輩☆」
沙知
「それもだんだん楽しくなってきたところだよ、問題児その1くん」
慈がしらを切ると、沙知が改めてホワイトボードにライブの日程を書く。
ステージが開かれるのは、今月末。
沙知
「ただ、その前に決めとかなきゃいけないところがあってね」
もうひとつ、重要な議題があるようだ。沙知の視線が、慈と梢に注がれる。なんだろう?
沙知
「『ユニット』だよ」
「……ユニット!」
梢が急に立ち上がった。びっくりした。興奮した面持ちで、梢がまくし立てる。
「それは蓮ノ空に伝わる三ユニットのことですね!」
沙知
「ああ、その通り。きみたちはライブをやる以上、どれかのユニットに入ってもらう必要がある」
「私はもう決めています! ぜひ、スリーズ──」
「待って待って待って」
なにやら大事な話が自分の知らないところで勝手に決まってしまいそうな流れに、慈がストップをかける。言葉を遮られた梢が、不機嫌そうに振り返ってくる。
「先輩。どうやら部外者がいらっしゃるみたいですけれど」
「こんなふてぶてしい部外者がいるか!」
沙知
「自分で言うことじゃないねぃ」
沙知が苦笑いをして、慈にもわかるように言い直してくれる。
沙知
「蓮ノ空のスクールアイドルクラブはね、ユニット制なんだよ。部員は基本的には、どこかのユニットに所属してもらうことになっているねぇ」
梢が補足する。
「『スリーズブーケ』『DOLLCHESTRA』、そして『みらくらぱーく!』。これが蓮ノ空の、伝統の3ユニットです」
また出たよ、伝統。蓮ノ空に来てから、しょっちゅう耳にする言葉だ。スクールアイドルクラブができてからまだ20年も経っていないらしいのに、大げさな。
「ってことは、部員全員で活動することは、ないんですか?」
沙知
「いや、それもある。ときにはユニットで。ときには全員で。それが蓮ノ空のスクールアイドルクラブの特徴なのさ。そこで、もうひとつ報告することがあってね」
立ち上がった沙知は、てくてくと歩き、ぽんと綴理の肩を叩いた。
沙知
「あたしと夕霧ちゃんは、DOLLCHESTRAを組むことが決まった」
「えっ、いつのまに!?」
先ほどから静かな綴理を見やると、彼女はこくんと小さくうなずいた。
綴理
「言ってくれたんだ。さちが、DOLLCHESTRAをやろう、って。ボクはまだ……『ス』だから」
「……ス?」
首を傾げる慈。
綴理
「うん。そうしたらきっと、3年間の間に、スクールアイドルになれる、って」
ああ、スクールアイドルの『ス』か、と思い当たる。
「3年て……」
明日のことだってわからないのに、あまりにも気の長い話だ。しかし、まあ、ふたりで話し合って決めたことなら、慈には異論を差し挟む理由はない。
「……困ります!」
理由のあるやつもいたみたいだ。梢が半日に一度のバスを乗り過ごしたかのように、うめく。
「それじゃあ……私は、誰とスリーズブーケを組めば……!?」
沙知
「それはもちろん」
沙知の視線がこちらを向く。
……ん?
梢と目が合う。梢の瞳は悲痛な色をたたえていた。まさか。
「待って!? 私と乙宗ちゃんでユニットを組めってこと!?」
沙知
「いやー……。あたしもね、つい言っちまった後で気づいたんだ。あ、これ、乙宗ちゃんと藤島ちゃんになっちゃうなあ……って」
悪びれず笑う沙知。梢がテーブルに手をつく。
「冗談じゃありません! こんな、いつ辞めるかもわからない人と一緒に、ラブライブ!を目指せっていうんですか!?」
「それはこっちのセリフだからね!? 毎日毎日毎日毎日ハードなトレーニングを押し付けられたら、体壊れるっての!」
「わかりました」
梢は表情を取り繕うと、堂々と胸に手を当てて、声明を出した。
「私は、ソロでユニット活動をします。よろしくお願いいたします」
沙知
「そういうわけには、いかないねぃ……」
「どうしてですか!?」
沙知
「去年、冬の終わり、進学の都合で先輩方が引退してさ。スクールアイドルクラブは、しばらくあたしひとりだったんだよ」
微笑みを浮かべながらも、沙知が真面目な声で語る。
沙知
「大して長い期間でもなかったのに、正直かなりしんどかった。きみたち後輩には、同じ目に遭ってほしくない。互いの努力を認め合う相手もいないっていうのはね、寂しいもんだよ」
「うっ…………でも…………」
ちらと、ちらちらと、梢が慈を見やってくる。
そこまで毛嫌いされるとと、だんだんムカついてきた。
「でもせんぱーい。私も乙宗ちゃんと一緒にユニットは、おことわりでーす。ぜったい相性悪いとおもいまーす」
「なっ……!? そんな……!」
「先にそっちから拒絶してきたくせにショック受けてるんじゃないよ! 打たれ弱すぎでしょ!」
「べ、別に! 誰もショックなんて受けていないわ! あなた程度に見くびられるなんて、心外だっただけよ!」
「いっつも人のこと見下してるくせに、よく言うよ!」
「それはあなたのほうでしょう!?」
部室に響くふたりの大声。それはこの一週間、何度も繰り返されてきた光景だった。
沙知
「やっぱりこうなっちゃったかぁ」
沙知が後頭部に手を当てる。それから聞き捨てのならない言葉を吐いた。
沙知
「あたしが夕霧ちゃんと先にユニットを組んだら、ワンチャンふたりもユニットを組んで仲良くなってくれるかと思ったんだけどねぃ……」
ユニゾン
「「は?」」
慈と梢が同時にじろりと沙知をねめつける。沙知はやや汗をかきながらも、あまり動じずに。
沙知
「わかった。それじゃあ最初に考えていたプランAといこうじゃないか」
人差し指を立てた沙知が、チャーミングに笑う。
沙知
「きみたちにはぜひ、ユニットでスクールアイドルとしての個性をぞんぶんに伸ばしてほしいと思う。そのために、あたしが一肌脱ごう」
まるで不可能を可能にする魔法使いのように、沙知が告げてきた。
沙知
「夕霧ちゃんとあたしで『DOLLCHESTRA』、乙宗ちゃんとあたしで『スリーズブーケ』、そして藤島ちゃんとあたしで、『みらくらぱーく!』だ」
今度こそ、慈と梢は唖然とした。
ユニゾン
「「……え!?」」
それが物理的にできることなのかどうかはともかく……結局、そういうことになった。
話を聞くと、沙知は去年も三人の先輩とそれぞれのユニットを掛け持ちしていたらしい。それは、1か月ごとに別々のユニットに所属する……なんていう変則的な形だったらしいが。
楽曲の習得数が3倍になるという負担も、もともと沙知が覚えている曲をやればいい、という話に落ち着いた。
そしてライブという目標が決まったスクールアイドルクラブは、翌日の土曜日。
なぜか近くの商店街──160軒近くの小売店や飲食店が並ぶ金沢市の観光地、近江町市場を訪れていた。
「いらっしゃいませー☆」
店頭に立ち、お客様の相手をする慈。遠目にも、観光客が何度も振り返ってくるのが見える。地元の人も『あれって、慈ちゃんじゃ?』と、ざわついていた。
そりゃそうでしょ! 私が人前に出たら、こうなるっての!
「沙知せんぱーい! これいったい、なんなんですかー!?」
すると、近江町市場のお店で売り子をやっていた沙知が、振り返ってくる。
沙知
「ライブを開くと決めた以上は、やっとかないとね。大事なスクールアイドルの修行だとも」
「これがぁ……?」
制服の上に、シンプルなエプロンをつけた慈が、自分の恰好を見下ろす。
「ひょっとして、部費が足りないからバイトをして稼いでこいってことじゃ、ないですよね……」
沙知
「あはは。ないない」
じゃあ本当にスクールアイドルの修行なのか。でも、これが?
沙知は誇らしげに胸を張る。
沙知
「あたしたちの活動は、地元の人の応援が不可欠だ。こういうところで顔を売るのも、大事なんだよ。って、あたしも先輩に連れてきてもらったのさ」
なるほど。だが慈は、頬に指を当てて、かわいらしく微笑む。
「私、そこはクリアしてると思うんですけど☆」
さすがの沙知も、認めざるを得ないようだ。
沙知
「藤島ちゃんは、なんというか……逸材だねぃ……」
どうやら、すでに人前に立つことを当然のこととしていて、舞台度胸があり、さらには応援してくれる人からの知名度も抜群の慈にとっては、効果的な修行ではなさそうだ。
まあ、それならそれで。102期のスクールアイドルクラブに藤島 慈が加入したというセンセーショナルなニュースを、ぜひとも広めてもらおうじゃないか。いや、まだ正式加入はしてないんだけどね?
沙知
「でも、見てごらん?」
沙知が示す先には、一生懸命、汗をかき、働いている梢がいた。
「はい、お会計は合わせて、540円です。……あ、そうなんです。お手伝いで……はい、蓮ノ空のスクールアイドルクラブで! あ……応援、ありがとうございます!」
緊張しながらも素朴な笑顔を浮かべる梢を見て、思わず眉間にシワが寄ってしまう。
「乙宗ちゃん、スクールアイドルクラブにいるときより、楽しそうなんじゃ……?」
沙知
「さすがにお客さんに仏頂面というわけには、いかないからねぃ」
「普段もあれぐらい笑ってりゃいいのに」
ぽつりとつぶやくと、沙知に顔を覗き込まれた。
沙知
「ん~~?」
「……なんですかぁ?」
沙知
「いやぁ、別にぃ?」
なんだこいつ。ムカつく顔をされて、慈も口を曲げた。
「私は一般論を言っただけですけど? いつも誰かを睨みつけてるより、笑顔のほうが味方も増えるじゃないですか? そういう意味ですけどー?」
ついでに、言ってしまおう。
「だいたい、沙知先輩の計画通り私と乙宗ちゃんが組んだところで、お互いのためとかぜんぜんならないと思うんですけど? なんなんですかあのお節介」
沙知
「あー! ちょっと忙しくなってきたなー! というわけで藤島ちゃん、あとはよろしく!」
「あっ、こら!」
おいおい。2年生の先輩が、都合が悪くなったら逃げ出すのか……? 慈は呆れて、腰に手を当ててため息をつく。
「まったく……」
視線の先には、相変わらずバカ真面目に働いている乙宗 梢。
「はい、そちらは……えっと、すみません。なんの魚、なんでしょう……。不勉強ですみません。今、お店の人に聞いてきますね。ちょっと待っていてください!」
心の中で、毒づく。
(高校生のお手伝いなんて最初からハードル下がってるんだから……。適当に手抜いて、へらへら笑ってりゃいいのに)
そういうことが、できない女なのだろう。
誰よりも早く朝練にやってくるから、沙知から部室の鍵まで預かっているらしい。それでいて、誰よりも遅くまで残って、歌やダンスの練習をしているのだ。
実際、本当に役に立つかどうかもわからないこんな修行にだって、全力投球。
本当に、不器用で……自分とは何もかも、真逆。同じユニットを組んだって、ぜったいうまくいくはずがない。
やめやめ。わざわざ気の合わない相手のことを考えて、イライラする必要はない。
「……ん?」
そういえば、一緒にやってきた綴理は、どうしたのだろう。
辺りを見回す。しかし目立つあの美貌は、どこにも見当たらなかった。
「あ、いたいた」
夕霧綴理は、近江町市場から少し離れた路地に、立ちすくんでいた。
まさか、持ち場の場所がわからなくなった、というわけではないだろう。探しにいく名目で体よくお手伝いをサボった慈が、声をかける。
「ちょっとー、綴理ちゃーん、なーにサボってんのー」
綴理が肩を震わせて、振り返ってきた。
思わず言葉を飲み込む。
「え……?」
その大きな瞳に、綴理は涙を浮かべていた。
驚いて、慌てて駆け寄る。
「ちょ、ちょっと綴理ちゃん!? どうしたの? お客さんになんかヘンなこと言われた?」
ブンブンと、綴理は首を横に振った。
「じゃあお店の人に……!? どこのどいつ!?」
信じられない。図体がでかいだけのこんな子どもをイジめるなんて。慈は思わず拳を握り固める。高校生を舐めやがって。私がぶっ飛ばしてやる!
綴理
「ちがう」
綴理が慈のエプロンを掴む。
「ちがうって……。じゃあ、どうして」
綴理
「ボクが」
心から歯がゆそうに、綴理がつぶやいた。
綴理
「ボクが、なにもできないから……」
「……そう、言われたの?」
またも綴理は首を横に振る。
「……。ちょっと、待ってて」
慈は綴理を残して、その場を離れた。自動販売機で飲み物をふたつ買って、戻ってくる。綴理は力なく膝を抱えてしゃがんでいた。
「はい、あったかいココア」
綴理
「……」
「入部初日、チョコのケーキとかなんとか言ってたでしょ。甘いもの好きかな、って」
慈が缶を押し付けると、綴理はなにも言わず受け取った。
だが、待っても飲んでくれそうにないので、缶を開けて、綴理に渡したココアと交換する。ほら、と促すと、ようやく思い出したように口をつけた。
綴理
「……あまい」
「そうだよ。心が渇いたときには、とにかく甘いもの。これっきゃないから」
綴理
「……」
どうしたもんかと思う。このまま待っていてもらちがあかない。かといって突っ込んで聞いたところで綴理が素直に事情を話すかどうか。そしてさらに言えば、綴理の話した事情を自分が理解できるかどうかも自信がない。難題だった。
遠くから、賑やかな近江町市場の喧騒が聞こえてくる。綴理とふたりきりの路地は、まるで雨の日の傘の中のように、静かだった。
綴理
「……ボクは、透明になりたい」
「……なにが?」
沈黙が漂う。せっかちな自分が声を荒らげないように、全力で己を律する必要があった。
心はコップだ。満杯に水が入っていれば、少しの刺激であふれてしまう。どんなにいいことを言ったところで、本人には受け取ることもできない。慈は綴理の言葉を、待つ。
綴理
「どうすれば、夕霧綴理を、やめられるんだろう」
「……やめたいの?」
綴理
「何者じゃ、なくなれるなら、今すぐに……」
部活前。綴理の様子がおかしかったことを思い出しながら、それでも慈は問いかけることをやめられなかった。
「なにがあったの?」
余計なことかもしれないとは、重々承知だ。だけど、慈にはどうしても綴理を放っておくことができなかった。
昔からずっと、こうやって生きてきたからだ。
泣いてうずくまる子が、自分の視界にいることが許せない。責任感でも、正義感でもない。ただ、嫌なのだ。厄介な性分だった。
いつまでも隣にいて離れない慈に、綴理はしばらく経って、口を開いた。
綴理
「あなたは夕霧綴理であって、スクールアイドルではない」
呪われた少女の言葉が、地面を叩いた。
「……なにそれ?」
しゃがみ込む綴理の隣に立って、空になったココアの缶を握りながら、慈は彼女の滅入るような声に耳を傾ける。
綴理
「ボクが前に、通ってたダンス教室。そこで、なかよく……? してくれた、子に、いわれたんだ」
「最近?」
綴理
「……うん。スクールアイドルをはじめたよ、って……。そう、言ったら……」
なるほど。だから綴理は朝から様子がおかしかったのだ。
慈が顔をしかめてこめかみを押さえる。
「なにそいつ。ちょっと電話番号教えてよ。私が文句言ってあげるから。悪いのは綴理ちゃんじゃないんでしょ」
綴理
「さちも、同じことを言ってくれた」
「それじゃあ」
綴理
「でも悪いのは、ボクなんだ」
「……なんでそうなるの」
自分を責め続ける綴理に、慈のただでさえ少ない忍耐がすり減ってゆく。
綴理
「スクールアイドルになったら、スクールアイドルになれると思ってた。でも、違った。スクールアイドルには、なりたくても、なれない。ボクがボクである限り」
「だから、夕霧綴理を辞めたい、って?」
綴理
「……うん」
不毛だ。なにがあっても、自分であることは辞められない。
……そう一言で切って捨てるのは、あまりにも簡単だが。
「あのさ、よくわかんないけど」
そう前置きして、慈は語り出す。
「そいつ、嫉妬してるだけだよ。綴理ちゃんの才能に。だから、八つ当たりされたんだって。気にすることないよ。世の中には悪意をぶつけてくる相手だって、いるんだから」
綴理
「……」
「せっかくスクールアイドルになったんだから、楽しいことをやってこうよ。いつまでも傷ついてたら、そいつの思うつぼだよ。悪意で人をコントロールするなんて、サイアクだから」
綴理
「……」
言ったところで、綴理はふさぎ込むばかり。やはり、慈の言葉は、届かない。
綴理
「……今までも、ずっと、そうだったんだ。ボクが踊ると、誰かが不幸になる。なにをしても、怒られるんだ。どうして」
「それは……」
知らなかった。変わった感性をもった少女だとはわかっていたつもりだったが、ここまで自己肯定感の低い人間だったなんて。
せめてダンスだけは、自信満々でいてほしかった。だって誰がどう見てもうまいんだから。自分にとってのタレント業と一緒だ。
なのに、心の支えになるそれさえもヒビだらけなら、綴理は今まで、なにを支えに立っていたんだろう。
答えは、彼女の口から放たれた。
綴理
「ボクはいつまでも、上から吊るされた、ただの人形だ」
慈は腕まくりして、のしのしと大股で歩く。
「沙知先輩!」
沙知
「おおっ? 藤島ちゃん、どこ行ってたんだい? もうそろそろお手伝いも撤収の時間だよー……って」
「綴理ちゃんのことですよ!」
沙知
「? 夕霧ちゃんが、どうかしたのかぃ?」
こいつ、とぼけてやがる。もどかしさが苛立ちとなって、綴理にぶつけられなかった分も合わさって、慈の口から飛び出してくる。
「あの子、なんかめっちゃ凹んでましたよ! わかってたんでしょ!? なのに、なんでこんなお手伝いとか……! 引っ張り回せるようなメンタルじゃないでしょ!」
沙知
「ほう」
沙知が目を細める。
沙知
「本人の口から、聞いてきたのかぃ?」
「そうですけど!?」
沙知
「なるほど、なるほどねぃ」
その余裕気な態度に、また腹が立つ。
「今度はいったいどんな悪だくみをしてるんですか」
ひょうひょうとしたこの先輩を、思いっきり睨みつける。
沙知
「人聞きが悪いなあ。藤島ちゃんは、どうすればいいと思う?」
「は……?」
急に始まった沙知からのお悩み相談に、慈は眉根を寄せる。
「寮のベッドで、ぐっすり休んだほうが、よくないですか」
沙知
「それで夕霧ちゃんの苦しみは、癒えるかな」
少なくとも、少しは楽になるはずだ。だが、それですべてが解決するはずがない。
綴理は『今までも、ずっと、そうだったんだ』と言った。これまで同じようなことが何度も繰り返されてきたのだろう。才能に嫉妬され、悪意をぶつけられて。
思えば、慈が綴理のダンスを初めて見たとき、『私たちとそんなに変わらない』と評したことも、(あれがただの負けず嫌いから出た言葉だったとしても)綴理にとっては新鮮で、嬉しかったのかもしれない。
だからきっと、綴理の問題は、恐ろしく根深い。
「……沙知先輩には、勝算があるっていうんですか?」
辺りを見回す。観光客もまばらになってきた、この近江町市場に?
沙知は腕組みをして、先ほどよりも真剣な態度で口を開く。
沙知
「スクールアイドルっていうのは、願えば誰にでもなれるんだ。資格も条件も必要ない。いつだって、思い立ったその瞬間からスクールアイドルさ」
「……だったら、綴理ちゃんだって、もうスクールアイドルじゃないですか」
沙知
「ただし、ひとつだけ条件があるとすれば、本人がそう思うかどうかさ」
自己認識の話だ。それはわかる。自分で自分を認められなければ、なにをやっても無駄だ。
近江町市場を背に、沙知が両手を広げた。
沙知
「この場所はね、人をスクールアイドルにしてくれるんだよ」
……まったく意味が、わからない。
沙知
「さあ、そろそろ夕霧ちゃんを、迎えにいこうじゃないか」
なにもかもが沙知の手のひらの上で踊らされているようで、慈は思わず舌打ちをした。
沙知
「夕霧ちゃん」
先ほどと変わらず石のようにうずくまっている少女に、沙知が声をかける。
その光景を、慈は後ろから眺めていた。
お手並み拝見……などという、達観した態度ではない。おかしなことを言ったら、引っぱたいてやるつもりだった。
沙知
「きみの苦しみを、あたしがすべて取り除いてあげることは、できない」
おい。初手から降参の姿勢を見せる沙知に、思わず拳を固める。
沙知
「心に降る雨は、冷たいかい?」
綴理はなにも答えなかった。
沙知
「それは、きみの心を濡らし続ける。きっと、これから先も。でもね、いつまでもそんなところにいたら、風邪を引いてしまうよ」
綴理
「ボクは」
顔を伏せたまま、綴理が絞り出すようにつぶやく。
綴理
「どうすればこの雨が止むのか、わからない」
沙知
「簡単なことさ」
沙知が綴理の手を掴む。
手を引かれ、顔をあげた綴理に、沙知が笑いかける。
小さなスクールアイドルの先輩は、確かに胸を張って、告げた。
沙知
「雨宿りできる場所を、見つけるんだ。きみはこの街に、居るだけでいい」
いつの間にか、そこには小さなステージが作られていた。
近江町市場から歩いて10分弱の公園。
辺りには、仕事を一段落した近江町市場のスタッフたち。
同じように、手伝いの終わった慈と梢も、そのステージの前で、居心地悪そうに佇んでいた。どちらもなにも喋らない。ただ『見ていてほしい』と言われた通り、始まりの時間を待つ。
制服姿のまま、沙知と、そして子どものように手を引かれた綴理が、壇上にあがってくる。
「……むりでしょ」
慈がこぼす。とても綴理は踊れるような精神状態じゃない。実際、今だって笑顔のひとつも作れず、うつむいている。沙知はいったいなにを考えているんだ。
元気の出ない子に無理強いをするような真似は、慈にとっていちばん嫌いなことだった。ただそれは善悪がどうという話ではない。単純に、慈のポリシーに反するのだ。
沙知
『みんな、来てくれてありがとう! きょうはお手伝いをさせてもらったお礼に、あたしのかわいい後輩を紹介させてもらうよ!』
笑顔でマイクを握る沙知が、手のひらで綴理を指し示す。
沙知
『DOLLCHESTRAの、夕霧綴理! 蓮ノ空の新入生で、スクールアイドルクラブ待望の新入部員さ。こないだから、あたしとユニットを組んだんだ』
小さな拍手が巻き起こる。綴理は両手でマイクを握ったまま、微動だにできずにいる。
「……むりだってば」
止めた方がいい。見ているこっちが痛々しい。慈がぎゅっと拳を握る。
今まさに、声をあげようとしたところで。
だが、綴理はマイクに向かって、口を開いた。
綴理
『ボクは、夕霧綴理、です』
公園が、シンと静まり返る。
綴理
『今は、それ以上でも、それ以下でもありません。夕霧綴理です』
沙知が合図し、音楽が鳴り始める。
DOLLCHESTRAの曲。Sparkly Spotだ。
その瞬間、綴理はまるで仮面を付け替えたかのように、ステップを踏んだ。
練習する時間なんて、ほとんどなかったはず。なのに、綴理のダンスは完璧だった。沙知すらも、かすむほどに。
おお……と感嘆の声が漏れる。慈の、隣からも。
「……すごい」
確かに、優れたパフォーマンスだ。天才と呼ばれるだけのことはある。
だとしても。
これがなんになるんだ。慈は奥歯を噛み締める。
彼女は、夕霧綴理でしかない。夕霧綴理にしかなれないと苦しんでいる彼女がステージに立ったところで、これまでと同じではないか──。
それでも懸命に、綴理は踊っていた。
自分の存在をまるで、再定義するように。
慈が祈るように、見つめる先。
壇上で、何度も綴理は沙知と視線を合わせた。そのたびに沙知は、スクールアイドルの先輩は、綴理を肯定するかのように、うなずく。
沙知がうなずくたびに、綴理の顔が持ち上がる。自分の隣に立つ誰かを確かめるように、そのまなざしが光を取り戻してゆく。
夕霧綴理としてステージに立つ彼女は、さなぎの殻を突き破ろうともがいているかのようだった。
慈の胸に、悲壮な綴理の表情が、焼き付いていく。
喉を震わす彼女は、土砂降りに濡れた迷い子のようで、だけど目が離せなかった。
スクールアイドル沙知の色と、夕霧綴理の色が、徐々に溶けて、混ざり合う。境界が夕霧綴理を侵食してゆく。壁が薄れてゆく。
たったひとりでは夕霧綴理にしかなれなかった彼女が、その色が、その姿が、スクールアイドル『DOLLCHESTRA』へと生まれ変わってゆく。
未完成の情熱が、慈の胸を熱くする。
いつしか最初の心配はとうに消え、ただ綴理に目を奪われる。
それはきっと、慈が初めて生で浴びた、スクールアイドルのステージだった。
マイクに向かって叫ぶように歌う綴理の姿は、美しかった。
やがて、曲が終わる。
今まで一度も練習で息を切らしたことなどなかった綴理が、肩で息をしていた。
空を見上げながら、彼女は余韻を味わうように、強くマイクを握り締める。
その瞳から、一筋の涙がこぼれた。
綴理
「……なれるかな、ボクは、スクールアイドルに……」
万感の思いとともに流れ落ちたその言葉が意味するところは、慈には、わからなかった。
沙知
「なれるさ」
ステージで、隣に立つ沙知だけにしかわからないなにかが、そこにはあった。
沙知
「きみはこれから何度でも、ステージに立つ。そのたびに、少しずつスクールアイドルになっていくんだ。そして」
拍手の渦の中、沙知が綴理に微笑む。
その言葉は、はっきりと慈の耳にも届いた。
沙知
「来年、またここでステージを開いて、素敵な出会いがあれば、きみはきっと解放される。認められるはずだ。そのときこそ、スクールアイドルになれる」
綴理
「……」
綴理は沙知に、なにも答えなかった。
それでも、このステージが綴理の中のなにかを変えたのだと、慈は悟ったのだった。
帰りのバスの中、泣き疲れて眠る綴理から少し離れたところに、慈は座っていた。
まだ全身に、ライブの余韻が残っていた。
梢は後ろの方の座席で、イヤフォンを耳に音楽を聴いている。慈が窓の外を眺めていると、隣にどっかりと誰かが座ってきた。
沙知だ。
沙知
「いやあ、お疲れ様。ステージの片付けも手伝ってもらって、ありがとうねぃ」
「……」
慈は沙知を見ずに、口を開く。
「意味わからないんですけど。結局、沙知先輩は綴理ちゃんに、なにをしたんですか」
沙知
「呪いさ」
「……はあ?」
沙知は気取った言葉で、告げてくる。
沙知
「長い時間をかけて綴理ちゃんにかけられた呪いは、それはそれは強いものだよ。たった一度や二度のステージじゃ、解けそうにない。でもあたしは、夕霧ちゃんにもどうしてもスクールアイドルを楽しんでほしかったから」
「……だから?」
沙知
「もう一度あたしが、夕霧ちゃんに呪いをかけたんだ」
来年、またここで──と、沙知は言った。
慈はむすっと口を尖らせる。
「……先延ばしじゃないですか」
沙知
「そうとも言うねぃ」
あっけらかんと、沙知が笑う。
沙知
「これでも、一生懸命考えたんだよ」
「はあ」
沙知
「いいじゃないか。心に降る雨は、いつまでも降り続くわけじゃない。1年経って、夕霧ちゃんが人との縁を積み重ねていって……そして、いつか自分をスクールアイドルとして認められるその日のために、心の準備をしてくれれば、ね。あたしはあの子を未来に託したんだよ」
未来……。未来ねえ……。
とりあえず、なにも考えていないわけでは、なさそうだ。少なくとも、沙知の行動で綴理の心が軽くなったのは、間違いないだろう。……だとしても、人を追い込むような沙知のやり方は、気に入らなかった。
だから素直になれず、そっぽを向いたまま、慈はつぶやく。
「そういうの、呪いじゃなくて『希望』って言うんですよ」
「へえ」と沙知が感心した。
沙知
「藤島ちゃん、いいこと言うねぃ。作詞してみたらどうだい?」
「いやですよ。めんどい」
にべもなく断ると、慈は目を閉じた。
自分にはできなかったことを、沙知は成し遂げた。強引で、ムリヤリ自分を部室に引っ張ってきて、悪知恵を働かせることもある先輩だけど。
ぼそっと言う。
「沙知先輩、たまには先輩らしいんですね」
驚いた沙知は、声を上げて笑った。
沙知
「なーっはっはっは! そいつは嬉しい言葉だねぃ!」
「ちょ、ちょっと! うるさい! 綴理ちゃんが起きるでしょ!」
思わず怒鳴る。すると梢もこちらにいぶかしげに視線を送ってきた。
綴理は……。大丈夫、まだ目を閉じて眠っている。今だけはまるで赤子のように、安らいだ顔で。
未来のことなど、なにもわからないけれど。
胸に希望がなければ、誰だって輝くことはできない。あの瞬間、歌う綴理の目は輝いていた。きっと、決めるのは自分なのだと、そう綴理は自分の心に叫んだのだ。
「……来年、ですか」
沙知
「そのときにはきっと、綴理ちゃんの胸に降る雨が止んであがっていることを、祈るよ」
沙知が、なぜなら、と笑う。
沙知
「あたしは、雨上がりの瞬間が、いちばん好きなんだ」
翌日、日曜日。紫色のラインの入ったいつものスニーカーを履き、トレーニングウェアで朝早くグラウンドにやってきた慈は、そこでばったりと部活仲間に出会った。
乙宗 梢だ。向こうもこちらに気づくと、嫌そうに顔をしかめる。
「……きょうは、早いのね」
「……乙宗ちゃんこそ」
「……私はいつも、これぐらいの時間にやってくるわ」
「……あっそ」
気まずい。やっぱり少し離れたところで練習をしよう。そう思っていると、珍しく梢のほうから声をかけてきた。
「夕霧さんのライブステージ」
「……ん」
「本当に、すばらしかったわ」
「まあ、ね」
ひとり先駆けてステージを披露した綴理に、思うところがなかったわけではない。実際、そのせいでこんなに朝早く、練習なんかにやってきてしまった。
綴理自身は、気づいていないだろう。ステージで必死に歌うその姿が、誰よりもスクールアイドルらしく見えた、だなんて。
風が吹き抜ける。梢が、重い口を開く。
「……ねえ、藤島さん。ストレッチ、手伝ってくれないかしら。私も、できればいいステージを作りたいの」
びっくりしつつも、慈は口元を緩めた。
だんだんわかってきた。
この女は、極度の負けず嫌いだ。……不愉快なことに、私と同じように。
「仕方ないなー。その代わり、私のも手伝ってよね」
「あら。藤島さんは体験入部なのだから、別にそこまで入れ込む必要は、ないんじゃ?」
「はあー!? 減らず口ばっか! そんなんだから友達もできないんだよ!」
「と、友達ぐらいいるのだけれど!?」
グラウンドで騒がしく言い争う慈と梢の元に、少し遅れて綴理と、そして沙知が合流してくる。
月末のライブはもう、すぐそこまで迫っていた。